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礼拝
森崇

常盤台バプテスト教会 2026.4.5. 11:30~ イースター礼拝 「義とされたる復活」森崇牧師【ローマの信徒への手紙 4章17~25節】(新共同訳 新約P.278~279)


礼拝出席カード



音声メッセージ

礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。
礼拝プログラム
前奏    ”すくいのぬしは” エンジェリックリンガーズ            
招詞    マタイによる福音書 28章18~20節   司式者
祈祷                        司式者
賛美    新生24番「歌え歌えキリストの愛を」
主の祈り
献金感謝
信仰告白
バプテスマ式 新生401番「わが君イエスよ 罪の身は」1.4節
聖書    ローマの信徒への手紙 4章17~25節
特別賛美  〝見よ暗き夜は明け” イースター聖歌隊
宣教    「義とされたる復活」  森 崇牧師
祈祷
賛美    新聖歌257番「キリストは生きておられる」
主の晩餐式 「ひとつの聖霊」
頌栄    新生33番「輝け主の栄光」
祝祷
後奏
宣教概要
  イースター、おめでとうございます。主イエスの復活の希望が共にありますように。
皆さんはイースターと聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。礼拝後のエッグハントのたまごは復活のいのちを象徴するものです。復活の希望はどこにあるのかを共に探していきましょう。
復活とは何か。今日、ひとつ持ち帰って頂きたい希望は、「復活とは私たちが義とされる」ことです。「義」とは、端的には、神さまの前に無条件に良い存在とされることです。
聖書には「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」と告げます。ここには、二つの福音があります。第一に、主イエスの十字架は私たちの罪の赦しのためであったという事です。第二に、復活はわたしたちを義とするために起こったという事です。この二つの福音はどちらも大事です。しかし、復活がなくては第一の罪の赦しも希望とは言えません。つまり、私たちの愚かさ、わたしたちの罪深さを赦すために尊い神の御子イエスのいのちが十字架上で裂かれ、その血によって罪を洗い流されたというだけであったならば、そこに残るのは、私たちの後悔です。「わたしたちは神の御子を十字架に磔にしてしまったのだ」という。しかし主イエスは「三日目に復活する」と言われていました。この神によって主イエスがよみがえらされたことにより、わたしたちは全き義を経て、主イエスと共に神の子として歩むことが出来るのです。
復活は、死からのよみがえりです。信仰の父アブラハムは、愛するサラとの間に子供が望めませんでした。待望してきた祈りと願いは長い間聞かれず、彼自身は「体が衰え(直訳:体が死に)サラも「子を宿せない(直訳:胎が死んでいる)」状態でした。アブラハムは自分の体に起きている限界を知り、望みを望むことはないと知りつつも、彼に訪れた主の約束の言葉を信じました。見よ、主の言葉があった。「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。天を仰いで星を数えよ。あなたの子孫はこのようになる」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創15:4-6抜粋)
本日の聖書個所にはアブラハムが主を「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を信じた」(17)とあります。これはつまり、アブラハムとサラが死者のようであったのにも関わらず、人知を遥かに超える神の可能を信じたという事です。「死者に命を与え」とは復活のいのちを起こし、「無から有を呼び出させる」とは創造のわざとしていのちを生じさせました。アブラハムはその後、25年にわたって主の約束の時を待ち続けました。しかし彼は不信仰に陥ることはなく、むしろ信仰によって強められてきました。(20)「強められ」とは(神によって)「力づけられる」という意味です。つまりアブラハム自身が頑張ったのではなく、主を信じる信仰そのものが、死んだ彼に復活を与え続け、いのちののぞみを起こさせ続けました。それこそが、彼に及んだ復活の力でした。
アブラハムにおよんだ「彼の義と認められた」という言葉は、彼だけのものではなく、24節にあるように、「わたしたちのためにも記されています」。それはつまり、希望なき死者の様なわたしたちであってもまた、主のみ言葉を信じる時、私たちは義とされ、わたしたちは復活と創造のめぐみに与かって生きることが可能であるという事です。それは私たちの努力や行いではありません。わたしたちに与えられた主イエスの十字架と、主イエスの復活によって、わたしたちは今、義とされているのです。イースター、
おめでとうございます!